感性の鏡

美しい日本の国語を後世へ伝えて行きたい。日本国語の美しい正書法を保存したい。不惑を目前に、そんな志を立てた。固(もと)より意志のぐらつき易い人間である私が徒手空拳とも言えるこの志を思い立った背景に、過去の自分の歩みについての分析がある。学者か翻訳家になるという職業志望に可能性を見出(みい)だせず、三七の時に患った大病の体験を皮切りに、自らの来し方を振り返ってみた。自分の生き方を通底する思考の特徴とは何か、自分は一体何を目指して生きて来たのであろうかと自問してみたのである。数年の間、「そもそも俺はなぜ学者や翻訳家になろうとしたのか」とひたすら問い続けて、私は遂に一つの結論に辿り着いた。それは、「難解な対象を噛み砕いて理解され易いものにする仕事が私を魅了したから」という結論であった。国語は、難解な対象を理解し易いものにするために不可欠な道具である。同時に、難解な対象を咀嚼(そしゃく)する感性の屋台骨としても機能する。抽象的な内容を解明し、それらを平明な形式に代えて伝達する感性は、卓越した国語能力の所産である。感性は抽象的な認識を経験の客観に変える資質のことであり、国語を正しく用いる能力が私達にあたえる「鏡」でもある。国語保存の志に尽力することは、日本社会の現状を映し出す感性の鏡をみがくことでもある。