『純粋理性批判』経験の類推について。

読書箇所は、「経験の類推」についての論述です。経験の類推とは、次のようなことを指して言われる概念です。すなわち、私達が世界をばらばらな現象の寄せ集めでなく、まとまりをもち、互いに連関して生起する現象の系列だと認識するには、もろもろの知覚が総合的に統一されている必要があります。かつまた、私達にとって世界が秩序をもった総体として現前するためには、知覚の統一に必然性がなくてはなりません。この必然性は、「実体は常住不変のものとして存在しているから、自然における実体の量は増減しない」という類推を始めとする三つの類推から導かれるので、これらを「経験の類推」と呼ぶのです。

『純粋理性批判』知覚の先取的認識について。

純粋理性批判』、今日の読書箇所は、「知覚の先取的認識」についての論述です。知覚の先取的認識とは、次のようなことを指して言われる概念です。約言すればすなわち、私達の生きる現象の世界において、あらゆる事物は連続した量と度をもって存在しているので、事物についての私達の認識もまた、経験的に連続したものでなければならない。大気中に真空の空間が存在しえないように、あらゆる事物は隙間なく連続して存在しているので、知覚の途切れた部分があったにしても、その断絶は現象に間隙があることを意味しはしない。知覚の途切れた部分を経験的な推論で補完し、現象の連続性が維持されるように悟性を働かすことこそ、カテゴリーを正しく適用することなのである、といった意味の概念です。

『純粋理性批判』上巻200頁付近。

カントの『純粋理性批判』を少しずつ読んでいる。今日の読書箇所は岩波文庫版上巻の200頁あたりで、先験的図式について論じてある。先験的図式とは、がんらい感性的なものでない悟性のカテゴリーが、感性的なものと関係しうるのはなぜなのかという問いに対するカントの解答であり、感性の捉える対象と悟性のカテゴリーとを架橋する概念である。先験的図式は量をもち、その量は数で表される、という所まで読み進めることができた。例えば「線分」を考えるとき、私達はそれを、定規で実際に引いてみなければならない。線分を定規で引いて図示してみることにより、感性的な対象は具体化され、そこに悟性のカテゴリーを適用する素地が用意される。先験的図式とはつまり、抽象的な対象を具体的に認識するための道具立てのことである。定規で引かれた線分が一定の延長(長さ)を有するように、先験的図式は定まった量をもつ。その量は、線分の部分がすべて同種であることからして、数で表すことが可能である。上巻200頁付近の論述を要約すれば大体こんな感じとなるのだが、それにしても面白い。読んでいてわくわくする。このささやかな感動を、他者の気持へと届けたい。読書会の構想は、そのためにある。

古典読書会開催の青写真

副業として、世界の古典を読む読書会を開きたいと考えている。古典を読む目的は、日本国語を読解する能力の開発にある。地元で副業関連のワークショップがあるということを知り、早速参加して自らの意思を公表し、読書会開催のヒントを得た。私のテーブルに集まってくれた方々のコメントから、営利を目的とする会は警戒されること、何がしたいかについてのビジョンがはっきりしない会には人が集まりにくいこと、先ずは賛同してくれる仲間を募ること、そのためには活動を粘り強く継続する必要があること、一度断られたからといって直ぐに諦める必要はないということ、を掴んだ。ブログを書き続けるというのは、活動を粘り強く継続する必要に気付かされたことに基づく試みである。読解対象とする古典は、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』や、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、松尾芭蕉の『おくのほそ道』等を想定している。参集者のアドバイスの中には、もっと軽い読物から始めてみては如何、という至極尤もな意見もみられ、岩波新書の青版くらいまで水準を下げてみても良いかと考えている。継続は力なり。努力したい。

感性の鏡

美しい日本の国語を後世へ伝えて行きたい。日本国語の美しい正書法を保存したい。不惑を目前に、そんな志を立てた。固(もと)より意志のぐらつき易い人間である私が徒手空拳とも言えるこの志を思い立った背景に、過去の自分の歩みについての分析がある。学者か翻訳家になるという職業志望に可能性を見出(みい)だせず、三七の時に患った大病の体験を皮切りに、自らの来し方を振り返ってみた。自分の生き方を通底する思考の特徴とは何か、自分は一体何を目指して生きて来たのであろうかと自問してみたのである。数年の間、「そもそも俺はなぜ学者や翻訳家になろうとしたのか」とひたすら問い続けて、私は遂に一つの結論に辿り着いた。それは、「難解な対象を噛み砕いて理解され易いものにする仕事が私を魅了したから」という結論であった。国語は、難解な対象を理解し易いものにするために不可欠な道具である。同時に、難解な対象を咀嚼(そしゃく)する感性の屋台骨としても機能する。抽象的な内容を解明し、それらを平明な形式に代えて伝達する感性は、卓越した国語能力の所産である。感性は抽象的な認識を経験の客観に変える資質のことであり、国語を正しく用いる能力が私達にあたえる「鏡」でもある。国語保存の志に尽力することは、日本社会の現状を映し出す感性の鏡をみがくことでもある。